子育て そしてバッチフラワーへ


子育てをはじめてからのこと、

バッチフラワーレメディを使い始めてからのことを、

つづりました。


2007年 女児出産

 

・・・結婚から7年間待たされて、やっと会えた我が子は、とても敏感な体質のおんなのこ。

常識的に生きていたつもりなのに、アレルギーっ子の子育ては、わたしの知る常識が通用しない出来事だらけ。

 

1カ月児のころ「乳児脂漏性湿疹」からはじまり、さまざまな症状が発生しては、人との出会い・療法との出会いにて、窮地を乗り越えることのくり返し。

母として「娘の身体を健やかにみちびく」ことは、最大の課題。

大きな課題に奮闘する毎日。

 

一番こころをくだいたのは「娘の心を守る」こと。

バッチフラワーレメディに出会うまでは、自分の時間をけずり、必要以上に頑張っていた。


2008年 アレルギー専門医として、信頼できる医師にであう

 

「アレルギーの治療は、ひき算が大切」

その医師は、アレルゲンをさがし、アレルゲンを除去する治療を得意としいた。

食事の中から、指示された食品を除去すると、娘の症状が改善。

少しずつ肌がキレイに変化するのを確認しながら、娘に必要なアレルゲン除去をした食事をして、母乳を与える。

食事を変えることで、母である私の体調もよくなることを、身をもって知る。

 

いきものの体は、食べたものでできている。

娘と自分の体で、感じる生活は、あらたな感動をわたしにくれた。

 

食事で少し改善するが、全てが回復しない。

まだ、なにかがある。

主治医の難しそうな顔色を見て、まだ必要なことがあるのだと感じる。

化学物質にも弱いとわかり、生活品のすべてを改善する。

住居に改善することができない問題があり、転居もする。

娘の肌がキレイになっていくのと、

私の体調がよくなること、

生活が整うこと、

すべてがリンクして、楽になっていった。

 

ボロボロの肌の赤ちゃんを抱きながら言う「かわいい」という言葉は、自分を励ますための言葉だった。

そう言っていないと、頑張れなかった。

「かわいい」と本心から言えるようになったのは、7カ月児になったころ。

体質に合った食事(娘と私は、よく似ていた)と、

化学物質の少ない環境が、

母と娘の、心とからだを、健やかに変えてくれた。

 

まだバッチフラワーレメディに出会う前のこと。

バッチフラワーを飲んでいたら、もっと早く楽になっていただろうに・・・と考えながら、むかしのわたしに「がんばったね」と言ってあげたい。


2011年 長岡京市に転居

 

3才になった娘は、あいかわらずの除去食生活。

除去食治療は、除去するよりも、除去を解除するときが難しい。

なにを、どのくらいまで食べられるか?

主治医との二人三脚で、除去解除を進めていく。

 

新たに食べられるようになった食品もあり、

新たにアレルギーになった食品もある。

なんともてごわい敏感体質。

 

でも化学物質はずいぶん改善して、新築物件にも入れる体になっていた。

お父さんの転勤にあわせて、長岡京市にマイホームを購入。

 

できること、できないこと、全部が娘の体を考えてえらんでいく。

でも、それだけではなく、この場所に住むことで、助けられたことがたくさんある。

かけがえのない出会いも、たくさんあった。

この場所に、娘が導いてくれたのかな?

そう思うことがある。


2012年 幼稚園入園

 

年中から入った幼稚園では、ずいぶん配慮してもらった。

お弁当を持参するが、みんなと同じ容器を借りて、おなじ気分で食事をする。

おやつ配布があるイベントにも、持参する。

 

虫除けの薬に、過敏になっていたので、使わない教室に配置。

ワックスもダメで、自粛してもらう。

どうしてもダメなものを除去して通う幼稚園で、楽しそうに過ごす娘。

 

年長の最後には体調も良く、のみぐすりや、ぬりぐすりを使わなくても大丈夫になる。

みんなと同じものが食べられなくても、気にしなくて、たくましくなったなと、頼もしく思う。


2014年 小学校入学

 

時期的に難しかった。

どの小学校を選んだとしても、工事がある。

大きな地震がきたときに、安全でなくてはいけない学校。

耐震基準が厳しくなった関係で、対応が必要になっていた。

順番に、耐震補強工事、建替え工事、どの小学校にも工事の予定があった。

 

入学した小学校では、校舎を、半分耐震補強して、半分建替えた。

化学物質に弱い娘は「化学物質過敏症」という病気になる。

なるかもしれない病気に、なってしまった。

予備知識があったので、可能な手段はしっていた。

でも、しっているのと、実際になるのでは、別世界だった。

 

がんばった。

がんばりすぎたのかもしれない。

今でも、思い出すと、つらい気持ちになる。

 

隣の小学校に転校する。

校区の境目の家だったので、登校班にも入れた。

夏休みの間に、ずいぶんと回復したので、学校に行くことはできた。

でも、とても敏感な体になっていた。

不安が大きく、最初の3日間は、教室のうしろで待機させてもらった。

3ヶ月間は登下校の付き添いをした。

 

11月にバッチフラワーレメディを知る。

すすめられるままに飲んでみる。

娘の心を守るために、必要ならと。

娘は「スターオブベツレヘム」を飲んだ。

化学物質過敏症になった出来事が、心のキズになっていたから。

すると、心のキズが癒やされたようす。

「学校の送り迎えをしなくていいよ」

娘から言ってくれた。

心が楽になって、からだも楽になったようす。

私は「ロックウォーター」を飲んだ。

かたくなに頑張っていたのが、ほぐれたのか?

気持ちが楽に変化した。

 

それから、「アスペン」「ミムラス」を不安解消に飲んでいく。

こころの楽が、からだの楽に、つながっていく。

 

バッチフラワーレメディが、わたしたち親子を救ってくれた。


2015年 セルフケア講座受講

 

2時間の講座を受講して、娘のためにバッチフラワーレメディを使う。

娘もバッチフラワーレメディを気に入ってくれて、なんとなく飲みたい時に使ってみる。

飲んだり、飲まなかったり。

自己診断で選んだのは10種類のレメディ。

家に常備して、心のケアをしていく。

とても頼りになった自然療法。


2019年 バッチフラワーレメディコンサルテーションを受ける

 

とあるきっかけで、5月から月1回のペースで、

個人コンサルテーションを受け始める。

それまで、娘のために使っていたバッチフラワーを、

自分のために使う。

 

自分のことは、自分ではわかりにくくて、

自分では選べなかったレメディを教えてもらう。

ひとつひとつ、確認しながら、

なっとくしてバッチフラワーを飲んでいく。

 

必要なときだったのだと思う。

 

幾層にも重なっていた、かたくなな感情が、ほぐれていく。

うらめしかった過去が、かけがえのない経験にかわっていく。

自分を好きになる。

自分を大切にしたくなる。

 

不思議に、環境が変わっていく。

 

あきらめの冷たい心がとけて

夫婦関係が良好になる。

 

「じぶん」と「こども」の輪郭がハッキリして

親子関係も良好になる。

 

「かあちゃんがバッチフラワー飲んでくれて、わたしが楽になった」

娘からの言葉だ。

 

心がスッキリして、

無意識の行動が変わったのだと思う。

 

楽しいことが増えて、すがすがしい日が増えた。


2020年 非常事態宣言発令

 

新型コロナウイルス流行による非常事態宣言により、世の中の流れが、急に止まってしまった。

おうち生活の中、バッチフラワーレメディで家族円満になっていて、ほんとうに良かったと思う。

 


 バッチ国際教育プログラムBIEP受講をはじめる。

2020年レベル1

2021年レベル2

2022年レベル3

 

2023年レベル3終了

バッチ財団登録プラクティショナーとなる。

 

何年たっても、娘の敏感な体質は、あいかわらず。

でも、バッチフラワーレメディのおかげで、めげてない。

明るく前向きに頑張るすがたに「想像とは違っていた」と言われることが多い。

こころが負けてなければ、頑張れるのだと思う。

 

学びの中で「バッチ博士の遺産」の文章にであう。

「わたしの課題」「むすめの課題」は別のものと、意識できるようになる。

わたしは「わたし」を大切にしながら「わたしの課題」に向き合う。

わたしは「むすめ」が大事だからこそ「むすめの課題」に向き合うのを邪魔しない。

たすけを求められた分だけ、たすけるのがイイ。

わかっていても手を出しすぎないようにバッチフラワーを使う。

小学6年生~中学卒業までは特に、むずかしかった。

むずかしいからこそ、よい学びとなった。

 

娘は中学で、やりたいことに励んだ。

吹奏楽部では副部長として、全体にも目を向けながら、

みなで奏でるハーモニーを楽しんだ。

生徒会役員も立候補し、学校運営にも積極的に参加した。

 

自分の進路にむきあい、志望の高校に進学した。

 

なんども学校に行けなくなっていたのに、

なんども「もうダメ」と思える経験をしているのに、

今をあきらめすに生きられるのは、すごいことだと思う。

 

たくさんの「気付き」「学び」を教えてくれた、娘とバッチフラワーに感謝。

ありがとう。

 

 

 

 


2024年 COSHIZU開業

 

わたしは、

幼い頃から、ひとの感情に興味があった。

 

周囲の大人が望む、癒やしの対象としての、こどもの自分。

必要な役目ならと、率先して行動していた。

こどもらしくない心で、ひとしれず親をささえていた。

ささえないと、家族が崩壊しそうで恐かった。

 

たぶん、昔から、ひとを癒やすことをしたかったんだろうと思う。

 

そんな過去も、プラクティショナーとしては貴重な経験と思える。

 

セラピストとして、出会えた人の、幸福と健康を願いながら、

進んでいきたいと思う。

 

 

 


長い文章を読んでいただいて、ありがとうございます。